人生には色々な分岐点がありますが、先日職を失い50を手前に再び分岐点に立たされている訳です。
人間49年生きていれば多くの分岐点がありますが、振り返っても戻れないのも人生。
でもこういった時間だから人生記録として幾つか振り返ってみようかと思います。
その1 音楽
音楽は家庭環境もあり物心つく前から何やら楽器をさわっていました。
父親が趣味でピアノを毎晩夕食後から10時か11時まで弾いていて、ベートベンやショパンは小さい頃の子守唄でした。父親が遊んでいるピアノは幼児の頃は触ってみたい好奇心があって、親の目を盗んではテレビとかで流れてくる歌の音をピアノで探すのが好きでした。
でも真剣にピアノを弾こうとは49年一度も起こらなかったです。
その後学校で吹く事が与えられたレコーダーでも一人の時間には好きなメロディー、例えばライオンズの応援歌だったり、アニメの主題歌などを記憶を辿って練習したりしていました。
中学で運動部に入りたくなかったので吹奏楽に入り、トランペットとサックスを希望したのに男子先輩がいるとの理由で地味なクラリネットになり、それでも自己主張が好きな女子達に戦慄を取られ続け、Cパートばかりやるうちに興味を失くして、2年の夏辺りから部活をサボるように
そして次に音楽に触れたのがその2年後、香港の高校で吹奏楽部があったので興味本位にクラリネットを持って入りました。ただ日本の部活と違いゆるゆるで、演奏もたまにあるキリスト教の行事に行われる朝礼で吹くくらいで、練習もゆるゆる、筋トレだとかそんな熱血な感じでは全くなかったので物足りなかったのを覚えています。
そして2年生が終わった夏にそれまで仲良かった友人グループがごっそり英国に帰国してしまい、消去法で残った友人がメタル好きで、英語の特訓が終わり時間が出来た放課後の暇つぶしにトイザらスのバイトを始めました。
その友人ダレンと一緒のシフトで働いてから、そいつの家に行って、音がうるさいから帰国するまで叩けないドラムセットがどっしり真ん中に座っている寝室で、ダレンの自慢のメタルレコードを聞きながら、メタルうんちくを聞いてメタルに洗脳される毎日を過ごしました。
トイザらスの給料で買ったのがエレキギターで、ここでやっと本題の分岐点へ話が向かっていきます。
ギターはそれから30年続けて、色々な出会いや経験を与え続けてくれている大事な人生の友達となりました。
生真面目な僕はギターが大好きだったのに、それを職業にする為に勉強しようとは考えず、周りがそうするからと、興味のない商業を流されるように大学で選考することに。
分岐点その1
その頃僕は既に英国に渡り、そこに住み続ける為の選択肢として大学に行く事にしました。ただその前に4ヶ月ほど悩む時間があり、出会いもありました。香港の高校時代から付き合っていた彼女といた訳ですが、その彼女が大学へ入る前に大学入学の資格を得る為に通っていたカレッジで、音楽科もあり、そこの生徒達と仲が良くなりました。
その頃の僕はバンドにも入らず、所謂ベッドルームギターリストだったのですが、腕前はその学校の生徒に比べても上手い方だったので、そのコースに入って音大を目指すように多くの人達から勧められました。
ただそこで自分なんかが通用する世界じゃないと決めつけて、ギターの腕前で恥をかくのも怖がって、そして親にも言い辛くて逃げて、結局中退をしてしまう商業科へ進んでしまいました。
その後、その音楽科の生徒3人とバンドを組むことになり、そのバンドが解散した後にそのコースに入る事になる訳ですが…結局そこを卒業したのが26歳で、親から香港へ戻るように促されそこで音楽の勉強が終了。もし商業科へ行かず、音楽へ進んでいたなら、音楽で大学を卒業できたかも知れないし、その後イギリスで音楽の世界へ進めた道があったかも知れないですね。
分岐点その2
大学に在学中、バンドが解散してしまったので、新聞でギターリストを募集しているシンガーを見つけてデュオを組む事になりました。作詞作曲が出来るんだけど、楽器が弾けなかった彼はそこら辺で人殺しがしょっちゅうあるヤバイ地域に住んでいて、とにかく練習に行くのに怖かったのが印象的でした。ピロピロメタルソロにしか興味ないのに、アコギで苦手なバッキングをする役回りに悶々としながら、気がつけばオアシスの前座の前座の前座をやらせてもらえたりと自分が全く納得行っていないのにどんどん仕事が入り、ライブの出番もどんどん遅い時間になり、変な洋服を着たヤバ目な人達から訳の分からない音楽業界の話を聞かされたりと周りがどんどん変わっていって怖くなりました。
結局ある日練習に行くのをやめて、音信不通になり、抜けました。
その後そのシンガーの名前を聞いたのがラジオでした。あの頃正直にシンガーに悩みを打ち明けて、話を聞いてもらっていれば、続けていれば…
分岐点その3
音楽活動ばかり頭にあり、勉強が疎かになったのか大学2年の期末試験で単位が足らず、追試で一応スレスレで合格しながら、大学から別の大学へ転入するように促され、転入先の手続きが遅くなり授業についていけず辞めてしまい、ほぼ1年何もせずぶらぶらしました。
お金は、親が払ってくれたその大学の入学費を丸々返金をしてもらい、その交渉力を買われ、辞めた大学から生徒会への誘いがありましたが、愛着があるマンチェスターを出て片道2時間のプレストンへ引っ越すのも嫌だったので断りました。
ただそこで踏み止まり、翌年にもう一度大学の3年に入っていたらその後の人生が楽になっていたでしょう。結局この年になり大卒でないのが原因で転職が難しいのは否めず、ここでの後悔は非常に大きいです。
分岐点その4
結局その翌年、せっかく行かせてもらったイギリスで学校を卒業したいからと親に頭を下げて3年前に入るべきだったカレッジの音楽科に入りました。
当然そこは大学へ進学する為の勉強がメインで、音楽理論やギター技能の勉強をさせてもらい、周りも同じ志を持ち、興味、趣味を共有できる仲間が大勢いたので夢のような時間を過ごしました。
ただ親との約束で自分は大学へは行かない事を決めていたので、卒業後は親のいた香港へ戻ることにしました。ただ親になった今、僕がその頃大学へ行くことを真剣に考えていたならば、親はそれを否定はしていなかったのではないかと、今なら思えます。
その頃、同じコースで知り合った彼女と一緒に居たのですが、歳が近かった声楽の先生からその子は相応しくない、自分と一緒になってロンドンでプロとして試してみろと1年がけで口説かれていました。
その人はオペラのソプラノ歌手で、僕が卒業した夏にロンドンの劇団へ入り、その後ずっとオペラ歌手として活躍をしたそうです。
あの頃数人からイギリスに居れるようにスポンサーを勝手出る人達がいたのですが、心の中で自分は通用しないと怖がって安全策であった香港ルートを選んでしまいました。
オペラ歌手の紐になって、ロンドンでプロとして通用したかはわかりませんが、そこで1年でも頑張っていればどうなっていたか…
分岐点その5
返還後の香港へ戻り、就活をしましたが、日本人としてビザを取るのに音楽はダメ、日本語をすっかり忘れていたので日系企業もダメということで世間はそんなに甘くはありませんでした。結局親の会社で日本語と社会勉強をする事になり、3年間そこで働く事を約束しました。
新しい環境の新しいチャレンジで色々と覚え、その頃仕事が楽しかったです。
イギリスで勉強したギターも、楽器屋で弾いていたら色々な人達から誘いがくるようになり、いつしかバンドを掛け持ちして、繁華街に引っ越して毎週毎週ライブ三昧になるように。
そして突然両親が会社を辞めることになりました。
同時期に同じバンドで切磋琢磨していたベーシストがプロへ転向し、一緒に頑張らないかと誘いがあり、プロとしてやってみようかと悩んだ時期がありました。
親から今後に活かすようにお金をもらいましたが、その使い道がまずかった…
その頃周りにはアメリカのバークリーでギターを勉強した人達が香港へ戻り、徐々に僕の出番を奪っていきました。そこで自分なんかどーせその人達に追いつかないんだからと卑屈になり、結局あまりピンと来ていなかった企業へ転職しました。
なぜあそこで、親からもらったお金でバークリーに行かなかったのか…
結局そこで僕は29になっていて、音楽での分岐点はそこが最後でした。人生そんなに何度もチャンスが来ないのに、音楽だけは5度も誘ってくれたのに毎回自分には…と逃げてしまった。
その逃げ癖が多方面でも今でも自分の可能性を絶ってしまっていて、結局50手前で無職です。
今でも音楽でやれることは沢山あるとは思います。例えばギター演奏を絡めたYoutubeだったり、ギターを教えたり。でもそんなんじゃ生活できないと鼻っから諦めている自分。
後悔先立たず
でもいつまでそうやって過去に囚われているのか…
そしていつまで自分の真意から逃げ続けるのか…
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